MCS、FM、リウマチからの回復記録

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短編小話「それと便座カバー」~『CLANNAD』に敬意を表して。~

 

「それと便座カバー」~『CLANNAD』に敬意を表して。~

これは昭和中期から平成初期まで、貧富の差がありながらも他所は他所、うちうちはうちと上手いこと社会が相互助け合いで成り立っていた時代の話です。

三丁目の夕日のようなご近所付き合いの活発だった時代を懐かしみ、あのころは良かったと、言う世代や年配者は多いかと思われます確かにあの時代は今と比べて、地域で子供を育てる意識が強く、他人の子供でもわが子のように叱りしつけた時代です。

そして今と違っていろいろな部分がおおらかだったかと思います。勿論、その世代を子供で過ごして結果を出した人たちからは、当時の指導の体罰に関して色々物議がなされており全てが良かったとはいいません。

また私のような特殊な事情があれば、公害や分煙意識の問題から、恐らくその時代だと生きていけないだろうなという背景もあります。

ただ、今を生きる現代人と違ってゆとりというか、精神的に余裕があったのは間違いないように思えます。それは何故でしょうか? ここで一つ昔話、私が小学生時代の同級生、正太君(仮名)の話をしたいと思います。(以後S君とします)

 

貧乏だったS君(正太君)の小学生時代

私の記憶が確かならばS君と同じクラスになったのは、小学校の中学年、3年生からだったかと思います。

貧富の差が激しい時代、医者の子供で裕福な子供もいれば、中流家庭の子供もいるし、片親家庭の貧乏な子供、そしてS君のように両親がそろっているのに群を抜いた貧乏な子供もいる。そんなクラスでした。

ちなみにS君レベルの子は始めて、その時私は遭遇したというか見ました。

当時は今と違い毎日シャワーやお風呂、またリンスや身体を毎日洗う週間がない時代でしたので、二日に一回お風呂に入る。もしくは毎日入っても身体をあらうのは、二日に一回とかそんな時代でした。

それでも群を抜いてS君は臭かった隣の女子が涙目でS君から真っ先に、席を離してS君は申し訳なさそうにしているのを覚えておりますS君は引っ込み思案というか、おとなしい性格なのかな? との印象を持ちました。

すると女性の教師が覚悟を決めたような顔で、クラスに入ってきました。このクラスの担任教師です。おそらくS君に対するいじめを警戒したのか、家庭問題にどう取組むか、これからの3学期について頭を悩ませていたのでしょう。

ちなみにこの時の担任の先生は3年生と4年生と受け持ってくれましたが、凄く生徒思いでいい先生でした。体罰はまずしないで諭すように生徒に考えさせるスタンスの先生で、S君へのいじめが起きなかったのはこの先生の手腕によるところも大きいかと思います。

後で知る事ですが、S君の家は電気ガス水道全て止められていたので、お風呂なんて入りようもなかったし、経済的に銭湯に行く余裕なんてなかったのです

 

S君に転機が訪れた。

一学期の中頃、ある程度すごして私たちはS君に対して、いい子だという印象を持っておりました。ただ家庭に問題があるだけなのだという、それだけの大きな問題のある子なのだという事です。

何とかしてあげたくても他所は他所、うちはうちの時代。ネグレクトなんて概念のない時代ですし、虐待なんて考えもしつけという概念の時代です生活保護なども恥として受けない人の多かった時代ですが、そもそもそのシステムを知らない人も多かった時代です。

担任の先生も何とかしようと凄く奔走していたようですが、S君の保護者がまともに取り合わず実を結ばなかったようです。

そこで校長先生と相談して、S君を朝一で学校に入れて、身体を洗ってあげて何とか臭いだけでも改善してあげようという対策を取ってあげるようになったそうですそのため部活で朝練習で早く学校に来る生徒は、学校で身体を洗うS君の姿を見る事もあったそうです。

そのため臭いはかなりマシになり、女子から机を離されるという事はなくなりました。1年2年生のときはどうしていたのだろうか、非常に気になるあたりですが、このあたりは割愛します。

それでもボロボロの衣類、粗末なお下がりやゴミ捨て場から拾ってきた私物、これらはどうしようもないし周りと比べてもその差は目に見えてハッキリとしてます。それでもS君は机を離されなくなり、話し相手になってくれる女子がいるという事実に喜んでいました。

冬だというのにシャツが破け、ズボンが穴だらけで、縫ってくれる親がいなくても楽しそうに笑ってました。

そんなS君に転機というか、ちょっとした変化が訪れます。

それは私の誕生会にS君を招待した時です。誰からも今まで呼ばれなかったのか、呼ばれてもプレゼントを用意することが出来ないから、S君から辞退していたのかは分かりません。

当初招待状に目を白黒させていたS君も、プレゼントを用意することができないからと辞退をしようとしましたが、これには私の母親が「プレゼントなんて持ってこなくていいいから、絶対に仲のいい子はつれておいで」と常々私に言っていたのが関係してます。

私の母親は私がどんな子と仲良くつるんでいるのか、直接確認するいい機会だと誕生日を利用していたため、プレゼント無しでむしろ呼べというスタンスの方針だったのです。

そのため、S君は人生初となる「お誕生会」に出席する事となりましたTVも漫画も家にないS君はかつて絵本か何かで見た、うろ覚えの情報を頼りに不安そうにうちに来たのを今でも覚えております。

そこで一通りレクリエーションをみんなで楽しんで、S君は心の底から楽しんだようだった。主役は私のはずだったが、何故だか私まで嬉しくなったのを覚えています。

すると母親が帰り際にS君に私の兄のお下がりや、S君のサイズに合いそうなものを色々詰めたものを手渡しました。S君は戸惑っておりましたが、私の母親は「これからたまにご飯とか食べにおいで、許可は取ったからたまに泊りにおいで。」とだけ言って、その日は解散となりました。

後で知った事ですが、私の父親は民生委員をやっているのですが、S君の家庭事情を知っており子供だけでも何とかしてやりたいと考えていたらしく、私の母親と一緒に学校側と連携していたようです恐らくS君は知らないはずでしょう

そのためできる範囲での援助をしようと決めたようです。ちなみに許可を取りにS君の家に行った際、壮絶なエピソードが合ったらしいです。

カーテンを閉め切っていると思いきや、窓一面にびっしりハエがとまっていたらしく水道が止められているから家のわきには用を足した跡だらけと言う状態だったらしいです

それだもん、S君が家に友達を呼びたがらないわけだと思いました。

そういう訳でS君を取り巻く事情は少しずつですが、変わってきていました。

 

S君と便座カバー

S君がうちに出入りするようになってから、4年生になり迎えた二度目の冬。大体、あの誕生会から1年が経過していたが、S君は相変わらず典型的ないい子で自分からお替りもしないし、変わらない日常が続いていました。

唯一変わったのは、うちの母親があれからS君の破けた服を縫ったり洗濯をしてくれるようになったぐらいだ。これぐらいの状況下で、いじめが起きなかったのはS君の性格もあるが、やはり周りの大人がしっかりしてサポートをしたのが大きいだろうと私は思ってます。

そんな中、珍しくS君が自分から私の母親に声をかけてお礼以外の言葉を口にした。ゴミ箱の中を指差して「これ捨てるなら、貰ってもいいですか!? 」と言ったのだ。勿論母親の返事は「どうせ捨てるもんだから、いいよ持っていきな!」です。

一体何を持って帰ろうとしたのかと思い見たら、ただの便座カバーでした。伸び切ってボロボロになり、紐が飛び出てみっともなくなった便座カバーです『S君の家に便座カバーなんて代物あるはずもないもんな』と私は、その時思ってました。

ただそれ以前の問題を忘れておりました、S君の家はトイレを使わないと言うことを失念しておりました。勿論、平成の時代に、トイレを使わないで外で用を足すご家庭が存在する事自体がおかしな話なのです。

そして翌朝、S君は嬉しそうに便座カバーを首に巻いて登校してきました。先生はリアクションに困り、クラスメイトはS君を傷つけまいと「今日は暖かそうだな」程度にして、なるべく触れないように接したのを覚えております。

そしてその日の帰りに友人らとうちで遊ぶことになり、みんなが帰ったあとS君に私の余っているマフラーをあげて便座カバーは便座にしくように言うつもりでいました。

事件はそこで起きました。

私の母親が「あんた、首に巻いてるのうちの便座カバーじゃないの」と言ってしまったのです。クラスメイトは頭に手をやり、S君はぽかんとした顔をしておりました。

そして私の母親はそのまま引き出しから包み紙を取り出し、新しいマフラーを出しました。「そういやあげるの忘れてたわ、ごめんね。ちゃんとこれを巻きなさい」そう言ってS君の首に巻いてやったのです。

S君は涙ぐみながら、嬉しそうに何度もお礼を言っておりました。みんなの前で恥を書かされたとか、そういった感情などなかったのです。

 

S君と便座カバーから思う事。

今や私も大人になり、日々忙しく心に余裕もゆとりのない日々を過ごしております。そして怒りっぽくなったというか、怒りっぽくなったような自覚も感じております。

そのときに思い出すのは決まってS君の事です、貧しくありながらも心だけは豊かで小さなことでも大きく喜んでいたS君です

ふと考えるのは、人はいつから心の豊かさをなくして貧しくなってしまったのだろうかという事です。昔はこうじゃなかった、あのころは良かった。それはおおらかだったとか適当だったとかその当りの話じゃないと思います

心が豊かで小さなことでも喜べたことだったのだと思います。いつから心が乾いてしまったというか、貧しくなってしまったのでしょうか。私は良くそれを考えます

今や便座も暖かいので、便座カバーをしないものが多く、便座カバーを見かけることも少なくなりました

今月の支払いでヒーヒー言って、お金のやりくりに困る中、私は苦しくて貧しい中にありながらも幸せそうに笑うS君の事が不思議でなりません。どうしてあのように笑えたのか、楽しめたのか・・・教えて欲しいです。

時代が変わった、今と昔とじゃあ違う。子供と大人は違う。

どれもあると思いますが、S君、君は今でも笑っていられてますか? 今でも貧しくても楽しめる、心の豊かさはもっていられたのですか?

君が最期に何を思って考えて逝ったのかは僕らは知りません。

ただ最期の言葉が救急隊員への「ありがとうございました」だったのは、とっても君らしいものだなと思います。S君は大人になる前にこの世を去ってしまいました。この世の中でも君は笑って、豊かな心でいられてのでしょうか。

何故か大切にしまってあった宝物のように、ゴミ箱から君が拾い上げた便座カバーはそちらに無事届いているでしょうか。スカスカの棺おけに便座カバーは正直、物凄く目立って斎場の人の目が泳いでいるのが凄く分かりましたが私たちは笑う気にはなりませんでした。

とっても大事にしてくれていたんだね、S君、それと便座カバーそっちではちゃんと本来の使い方を出来ていますか?

貧しくても、君のように心だけは豊かでありたいですが、どうすればそうあれるかそっちに行ったら教えてくださいね。

 

 

     「それと便座カバー」完

 

 

 あとがき。

 

特定を避けるため、複数人物の体験と境遇を混ぜて色々フェイクを入れて書いたけど、なんじゃこりゃ(^^;)。

 

小説を書きたくなって書いたけど、やっぱり才能ないなあと改めて思いました。